人間風車

2006/04/28(金)
植物の体温

そういえば、植物の体温ってどのくらいなんだろう。
は虫類と同じように変温なんだろうが、
平均何度くらいなんだろう?
と思って調べたら、
体温調整できる植物ってのがいるのを知ってビックリ。
早春に花を咲かせるザゼンソウは、
氷点下を含む寒冷環境でも、
その肉穂花序の温度を20℃内外に維持する能力を有する
とのこと。
こういう植物は『恒温植物』っていうのだそうだ。
ザゼンソウの発熱器官である肉穂花序においては、
哺乳動物型の蛋白質が(発熱に)特異的に発現している
っていうのも、おどろきだ。
体温を一定に保つということは、
感知、伝達、判断、指令といった
神経っぽい機能があるっていうことだからスゴイ。
植物には動物と違って、
分散型の神経系(脳)があるのかもしれない。

そういえば、昨日の夜中、
「スマトラ大コンニャク」の特集をやっていた。
この植物も花を咲かせるとき、熱を出すようだ。
暖房器具に使えたりする植物なんてのも、
どっかにいるのかもしれない。

ちなみに、
ザゼンソウもスマトラ大コンニャクも
発熱時、相当くさいらしい(笑)

などと思っているうちに、
あっという間に週末。
来週はもーGWかぁ。
早い、早すぎる!

止まったら死んでしまうマグロのように
働きづめ、出し続けの弊社なわけで、
(平たくいうと自転車操業)
水面下でいろいろ動いているわけですが、
今回は、まだ具体的なことを言えない感じ。
『ガラクテイル』では、
少しお行儀がよすぎたという反省があるので、
そのあたりの反省をふまえて、鋭意進行中っす。


2006/04/26(水)
ゲームと弁当

ゲーム作りは弁当作りに似ているのかもしれない。
ふと弁当を作ろうと思った瞬間、
その人の頭の中には、
タケノコご飯とかかにクリームコロッケとか
エビフライとか卵焼きとかタコウインナーとか、
そういう単品がイメージされているんだろう。
そしてそれはとっても食べたいもの@nowなんだろう。
が、次の瞬間、
その弁当が売り物であろうと子供の弁当であろうと、
それ一品でいいんだろうかという不安がよぎる。
見た目がしょぼい。
もしこの一品が食べる人が嫌いだったらどうしよう。
ひょっとしたら手抜きと思われるかもしれない。
などなど。
ということで、もう一品添えることになる。
少し不安が消えた。
しかし、不安がなくなったわけでもストップしたわけでもない。
むしろ、アイテムを増やすことを許してしまったので、
ある意味歯止めがきかなくなったと言える。
一品と二品では意味が違う。
二品と三品以降は同じこと。
そう思うと2品で止めることに意味がなくなってしまう。
ということで、三品にしてみる。
ますます上のような不安は薄らぐ。
がしかし、代わりに、
じゃあ四品にすればもっと薄らぐんじゃないか
という気持ちが持ち上がってくる。
三品でストップする根拠もない。
コストとか労力とか技術とか大きさとか時間とかいった、
外からの限界がくるまで品数が増えていくことになる。
そしていつの間にか、
弁当は幕の内弁当になってしまうのであった。

いつか機会があったら、
この例えでゲームを憂えてみよう(笑)


2006/04/24(月)
なめ茸とえのき茸

ぼんやりテレビを見てるんでけど、長年のナゾがとけた。
ナゾ:なぜ、瓶詰め味付けえのき茸をなめ茸というのか?

昔、(現在ではえのき茸)と呼ばれる
栽培キノコを「なめ茸」として売り出した。
が、
すでに売られていた「なめこ」と紛らわしいということで、
「えのき茸」に改名した(もどした?)。
が、
えのき茸の開発者が「なめ茸」という名前に
あいちゃくがあったので、
えのき茸の加工品には「なめ茸」という名前を使った。
というのが真相だそうだ。
紛らわしい! (笑)

最初はすごくシンプルに考えていたアイデアも
ちょっと油断するとすぐに肥大化してしまう。
肥大化と見るかアイデアの補強と見るか、
むつかしいところだけど、
ワン・アイデアでコンパクトでインパクトがある
ゲームを作るのがマイ理想だ。
肥大化してしまうっていうのは、
いい意味で考えれば、
素性がいいので
どんどんアイデアが生まれてくる、付け加えやすい
ということになるし、
ネガティブに考えれば、
根っことなるアイデアだけでは自信がない、
あるいは、
そういう小さなゲームは受け入れられないんじゃないか
とかいった不安があって、
それゆえ、精神安定の補強剤として付け足している。
そんな危険思想であるとも見れる。
どっちなんだろう。
と悩む時間があるのなら、
シンプルでコンパクトな根っこのアイデアに
磨きをかけるべきというのが
たぶん、正しい姿勢なんだろうな。


2006/04/21(金)
脳内汚染

「水中毒」に続いて初めて知った言葉「脳内汚染」。
どうやら岡田尊司氏作の言葉らしいが、
有名な言葉なんだろうか。
某雑誌のコラムに、
"ニートの発生は、テレビゲームやネット依存などによる
『脳内汚染』とも関係があろう。"
と書いてあって初めて知った。
"とも関係があろう"というクールな言い回しに、
筆者の冷静且つ公平な視線を感じるけど、
"テレビゲームやネット依存などによる『脳内汚染』"
という言い切りには躊躇が感じられないあたりは、
少々ビックリした。
テレビゲームやネットは、脳内を汚染するのかな?
別にゲームやネットばかりじゃなくても、
過度の依存はなんでも脳内を汚染しようなものだが、、、。
(そもそもニートは社会の問題や犠牲者なんだろうか
っていう疑問もあるけど)

そんなことを思いながら、
ふとまったく関係ない思いが浮かんだ。
インターネットが気がついたときから
当たり前にある世代というのは、
ある意味不幸である気がしないでもないということだ。
うまい例えではないけど、
身近なところに銃がある子供たちと
ある意味、同じ不幸さがあるように感じる。
銃が人を殺すわけではないが、
もし身近に銃がなければ、少しは悲劇は減っただろう。
(もちろん、銃は人に危害しか与えないが、
インターネットは、
危害よりも何百倍も幸せをもたらしてくれるから、
同じ土俵で語ってはいけないものではあるが)

時代には関係なく、
子供だって愚痴りたかったり、
(自覚して)暴言を吐いたり、
誹謗中傷やねたみや偏見や八つ当たりをするものだ(ろう)。
それはいいことでも悪いことでもないだろう。
単に自然な「生理的現象」と見るべきだろう。
ただ、昔ならそれらは、
日記に書くか、友達に言うか、ラジオ局に投稿することぐらいしか
吐き出す手段がなかった。
不特定多数の人にぶちまけるなんていう手段なんてあり得なかった。
それがインターネットの普及で、
簡単にできるようになってしまった。
吐き出す手段がなかった時代、そういった悶々たる思いは
いったん自分で飲み込んで、
自分の中で「消化」するより仕方がなかった。
そういう「消化」することは、
少なからず他人や社会や自分を理解することに役立っている。
そうした処理をしないまま、
外界に鬱々たるエネルギーを放出してしまうことは、
放出する者にとっても、そのターゲットにとっても、
とても不幸なことだ。
昔の子供が偉かったわけではなく、
昔の子供だって、今のような環境だったら
同じようにしたに違いない。
そういう意味で、
今の子供たちの方が少し不幸だとも言えると思うというわけだ。
(もっとも、そうした不幸以上にラッキーも手に入れていると思うが)


2006/04/20(木)
水中毒

なんででも中毒になるんですな。
初めて聞いた言葉です。
水中毒とは、
体内の水が他の溶質とりわけNaに比して
著しく増加した病態のことで、
強度の低Na血症により、血圧は上昇、神経、筋の異常を認め、
筋の痙攣、傾眠または昏睡、全身痙攣などの症状を起こし、
最悪死に至る。
という病態らしい。
<出典:薬局 1997.1 >

あいかわらず、
脳ドリル系
(まわりではツール系なんて言う)が売れているみたいだ。
スゴイなー。
これはツール系がゲーム機での
スタンダードな遊びになったと見るべきなんだろうか。
それとも一過性のブームと見るべきなんだろうか。
あるいは、この先、ツール系は変容していくんだろうか。
ゲーム的な要素が付け加えられることが求められるんだろうか。
それともそういうったことは不要なままなのだろうか。
きっと、
どのメーカーもそこんところが知りたくてしようがないだろう。
(おれもおれも)

きっと、これからゲームを作るときには、
誰に向かって作るか、誰に遊んでほしいか、
今以上に明確に決めていかないとダメなんだろうな。
「幅広く受け入れられる」というのは、
なかなかむつかしいだろうし、
「そういうのって、幻想かも」という気がしないでもないし、
絞ったユーザーにピンポイントでフィットした方が、
いい成績が出るような気がするからだ。


2006/04/14(金)
EQP

一実験的ゲームプロジェクト(experimental gameplay project)
てのがあったのだったのかー。

ゲーム機の高機能・大容量化に伴う開発への負担は増大が、
ゲーム自身の可能性を閉じようとしている危機を招いているという
当たり前且つまっとうな且つよくある議論の場であるらしい。

このプロジェクトには3つのルールがある。
第1則
「それぞれのゲームは7日間以内に開発しなければならない」
第2則
「それぞれのゲームは完全に一人で開発しなければならない」
第3則
「重力や、進化や、跳ねるといったような
一般的な法則をテーマに持っていなければならない」

これだけのルールで、ひたすらミニゲームを開発し続けた結果、
4ヶ月で50以上のゲームが生みだされたらしい。

どのルールも「その通り!」って思うルールじゃないけど、
実験的なゲームを次々に、果てしなく作り続ける
というプロジェクト・テーマの
「果てしなく作り続ける」という言葉にシンパシーを感じる。
結局の所、反省しても予想しても計画してもそれはそれで、
いくらそうした事前の考察を積み重ねたところで、
作りだしてみないとわからないし、
作り上げないと意味がない。
作り続ければどうにかなる、、、と思いたい。


2006/04/11(火)
ゲームで学ぶ

一時期、マンガで学ぶ歴史とか科学とか経済とか株とか、
そういうマンガ感覚のお勉強コンテンツが流行ったっけ。
そのゲーム版みたいなのが、ここのところ出てきてるらしい。
ゲームをプレイする中で、
ガンの仕組みを学ぶとか、エコロジーについて学ぶとか。
そうした遊びがテレビゲームの主流になるとは思えないが、
ゲームの「幅」が広がることは大いにウエルカムだろう。

フリー百科事典『ウィキペディア』メインページ
は、無資格の不特定多数の「素人」が集まって作ったというか
今なお(その作り方を含めて)現在進行形の百科事典だ。
ぼくもちょくちょくお世話になっている。
むつかしい科学用語だと、その精度については査定できないけど、
今までの感じだとかなり精度の高い情報が集まっている感じがする。
みんな無報酬でありながら、
これだけの知的財産が構築されるんだから、
インターネットというのはすごい。
また、編集者が無資格でありながら、
あるいは管理に莫大なエネルギーをかけているわけでもないのに、
情報が「汚れない」のもすごい。
(よく実情を知らないだけかもしれないけど)

同じような一般人による「集合知」みたなものに、
いわゆる商品に対してなどの「レビュー」があるが、
こちらはどうなんだろう。
たしかに初期の頃は、情報が汚れていない感じがした。
情報の量は少なくても質的には高かった気がする。
今はどうなんだろう。
個人的にはずいぶん「汚れた」と感じている。
対象への感想はべつに賛辞だけである必要はなく、
むしろ痛烈な批評の方がありがたかったりする。
しかし、
批評と批判は少し違うと思うし、中傷とは全く別のものだ。
そこらへんの区別がなくなっているような気がする。
レビューとは実際に手にとって、
読んだり見たり遊んだりしたあとの感想を意味する。
そうでなく、
単なる作り手への攻撃のためのコメントは、
誰のためにもならないはずだ(書いた本人に対しても)。
そうした「汚れ」がレビューには加わりやすいところが
なんとも残念だ。
『ウィキペディア』のような質の高さを維持してほしいものだ。


2006/04/10(月)
英語

何かで読んだんだけど、
日本人と韓国人は母国語の性質上、
本来的に英語が苦手なのだそうだ。
そうは言っても、ほとんどの人が、
7年から10年近く学校で習っているのに、
こうまでしゃべれない、
それ以上にこうまでコンプレックスを持っている
というのは驚きだ。
(自分も驚きの対象の一人だけど)

学校の英語の先生は、
自分たちが一生懸命教えたことが全く役に立っていない
っていう状況をどう感じているんだろう。
もっとも役に立っていないのは英語に限らない。
数学だって歴史だって学校の勉強は、
実際の生活には役に立っていない。
ただ、
連立方程式の解法や世界史を忘れていようが
だれもいっこうに気に止めないが、
英語の場合は、それをコンプレックスと感じている。
それどころか、
自腹で駅前学校に通ったりソフトや教材を買ったりして
勉強をしようとしている。
つまり、だれもが英語を必要と感じ、
まじめに習得しようと思っているのに、
学校の教育がそれを満たしてくれていないということだ。
これはやっぱりヤバイというかもったいないことだろう。
もっとも、学生時代には英語の大事さなんて
わからないからかもしれないけど。
(自分がそうだった)

そうそう、
知り合いが言っていたことでなるほど!と思ったこと。
いくら英語がしゃべれるようになっても、
問題はしゃべる内容であることには変わりがない。
日本語の段階で
ちゃんとした言葉でしゃべれる、
内容のある会話ができる。
ってのが大前提というかもっと大切なことだ。


2006/04/06(木)
ゲームの塩加減

ごめん、巨人。
ずっとここのところ、
巨人のことを本当にスキなのか疑っていたけど、
おいらがきらいだったのは巨人ではなく、
弱い巨人だったんだ。(笑)

ゲーム企画の話をしていて、
「ゲーム的要素」という言葉が出てくること自体
「どーよ」という話だけど、
実際にどのくらの「濃さ」の
「ゲーム的要素」を加えるかっていうのは、
よく議題に上る(うち関連だけかもしれないけど)。
例えば、『脳トレ』のような
ツール系がスタート地点の人にとっては、
点数がつく、記録が残る、評価がつく、
点数表示がキャラクターだったり、
アニメーションだったりする、
毎日やるようにあおる、だんだんとメニューが増える、
正解不正解の演出がハデ、アニメーションする、
てなことだけでも、
十分に「ゲーム的」と感じるようだ。
逆に言えば、そこに
ライバルがいる、バックストーリーがある、シナリオがある、
世界がある、世界の住人がいる、
ミッションがある、攻略性がある、コレクション性がある、
なんてのは、
「濃い」(あるいは濃すぎる)ゲーム要素と感じるようだ。
ちょうど、
一昔前のフランス料理の濃さのようなものなのかもしれない。

よかれと思って加えたネタが濃すぎると感じられてしまうのは、
作り手遊び手両者にとって不幸だ。
うちのゲームは「薄味」であることが多いと思うけど、
それでもどっぷりゲーム業界に浸かってしまっているので、
そういうライトな人の「濃さ」
感覚を見失ってしまっているのかもしれない。
ターゲットがヘビーユーザーなら、
そんなことは考えなくてもいいんだろうけど、
そうでない場合は、
そのあたりの塩加減には注意しないといけない。


2006/04/04(火)
雑誌感覚でゲーム機をいじる

米光一成さんというゲームデザイナーと
荻原貴明さんという フラッシュ職人さんの
『ゲームデザイン研究所』というweb連載。
今回のテーマは「ゲームのリアルって何よ!?」
すまん。今、あまりこの手のテーマに興味はないっす。
が、フラッシュをいじりながら講義が聴けるっていうか、
フラッシュのソースの解説までしてるってのは、
おもしろいし、説得力があるし、webっぽくていいなと思った。

っていうか、こういうネタの雑誌というか本というか、
そういうタイプのソフトが携帯ゲーム機で
見れたら、読めたら、いじれたらと思うんだけど。
(それがいわゆるゲームである必要は全然ないと思う)
ゲーム機のグラフィックやアニメーションの再生能力や
インターラクティブ性は、
他の携帯装置に比べて圧倒的に高い。

週刊とか日刊とか臨時とかリアルタイムとか
時事問題とか巷の話題とか
科学とかショッピングとかおしゃれとか恋愛とか
政治とか健康とか宗教とか
そうした性質や要素は、
最近、少しそうしたソフトもでてきたけど、
まだまだゲームでは馴染みの薄い要素だ。
携帯できることやネット接続できることで、
(あるいは十字キー入力に頼らないことで)
そういう要素が取り込んでいける「下地」はできたと思う。
あとは、
ゲーム機=従来型のゲームを楽しむ装置
っていう既成の概念が、
ユーザーから(それよりも販売する側から)
薄れていくのを待つばかりだ。

雑誌感覚でゲーム機をいじれるようになったら、
とても楽しいはずだ。
携帯電話がそうなる前にがんばらないと(笑)




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