人間風車

2007/03/30(金)
クマムシ

唐突ではありますが、
本日はクマムシの話でもって、
人間風車にかえさせていただきます。
ご精読感謝いたします。

クマムシと言っても、虫でもなく熊ではない。
緩歩動物門に属するクマムシ科クマムシ族クマムシのクマムシ。
ちなみに、緩歩動物門にはクマムシしかいない。
われわれは、
脊索動物門ほ乳網サル目ヒト科ヒト族ヒトであるから、
「門」は、ホヤから我々までを含む広いカテゴリーである。
そんな「門」にクマムシしかいないわけだから、
彼らがいかに特殊な存在かがわかる。

彼らが有名なのは、その耐久力。
乾眠状態になると、
耐X線:57 万レントゲン(人間の被爆限界の1000倍)
耐圧 :6000気圧(マリアナ海溝の6倍の深さに相当)
耐熱 :ー272 ℃から +151 ℃まで
そのほか、無酸素状態でも真空でもOK。
おそらく電子レンジでチンしても大丈夫。
乾眠状態を過ごす環境としては、むしろ、
真空、絶対零度の環境の方が良い(これって宇宙空間!)。

乾眠状態のクマムシに水を与えると、すぐに蘇生する。
このことから、
乾眠中のクマムシは生きているとされる。
しかし、
乾眠状態では、いっさいの代謝(呼吸や化学反応)をしない。
こういう状態は一般に死んでいるという。
生から死への移行はあっても、死から生へはありえないとする
我々の常識からすると、これは困った事実であり、
そのため、クマムシ(だけじゃないけど)のために、
「命を隠している(クリプトビオシス)」という特殊な状態が、
定義されている。

ただし、
この耐久性のみを話題とすることをクマムシ学者たちは喜ばない
(まるで巨乳アイドルがおっぱいのことばかり
扱われるのをいやがるように)。
「クマムシはカワイイからだ」が彼らがクマムシにはまったり、
勧めたりする理由だという。
ちなみに、ぬいぐるみまで出てるらしい。

一般書籍としてはこれ『クマムシ?!
7刷ってんだから、クマムシ人気はスゴイ。


2007/03/28(水)
点と点をくっつける

こんなにみんなが「調べる」時代ってあっただろうか。
インターネット環境の整備と検索エンジンの発達で、
「調べる」ことがとても簡単になった。

んなのに、
昔、自分で調べることが大切と言ってた偉い人たちは、
ネットの「検索」ではダメだ、
辞書をひくという行為こそ大切。
という。
きっと、
言いがかりに近い主張だなーと誰もが思っていると思うけど、
本人たちがまるで無自覚であるのが痛い。

調べることで物事の理解を深めること、
理解を深めようと行動することこそ主題であって、
調べる手段自体は問題ではない。
文献を読みあさるもよし、
辞書を引くもよし、
物知りに聞くもよし、
ググるもよし。
どれも等価なはずだ。

ただ、何かを調べることによって、
点的な知識を得るだけだとそれはちょっともったいない。
点と点を結びつける力こそ大切であり、
1つの点を調べたことで、他の点とそれが結びついた!
っていう瞬間こそ、調べることの醍醐味だ。

うんちく芸に見られるような
点の知識をいくら集めてもあまり役に立たない。
もし、すごく点的知識が有用なら、
クイズ王が時代を動かしているに違いない。
直感とかひらめきとか推理とか整理とか洞察とか
そういう脳の働きは、
それまで無関係だった点と点がくっついた脳活動と、
(ちょっと乱暴だけど)そう言える気がする。


2007/03/26(月)
病気判定薬

この季節、風邪だと思っていたら
花粉症だったということは多いけど、
まだ花粉症だと思っていたら、
どーやら風邪を引いているようだ。
花粉症の人だったらわかると思うけど、
ホントわかりづらいんですよねー、
風邪の初期症状と花粉症の症状。

そーいやー、
妊娠検査薬以外に、
薬局で買える病気判定薬ってあるんだろうか。
リトマス紙のように、
なめて赤くなったら花粉症、青くなったら風邪とか。
病気を治してくれたり
症状を抑えてくれたりする薬もありがたいけど、
その前に、
どの病気にかかっているかわかる薬ってのがあると、
それはそれで便利そうだ。

糖尿病なんかも採血~血液検査というシステム以外に、
もっと簡易に調べられる薬があれば、
ずいぶんとみんな助かるんじゃないだろうか。

予防でも症状緩和でも治療でもなく判定薬。
よく、カウンセリングの世界で、
自分のことを理解した時点で、解決したも同然。
みたいなことが言われる。
悩み事の直接の原因がなくならなくても、
今、自分がどういう状態にあるのか、
なんでそういう状態になったのか、
その原因を「理解」するだけで、
ずいぶんと人は「自己修復」できるものなのだ。

体に何か教えるというのは、一見非科学的に思えるけど、
筋トレなどで鍛えたい筋肉に向かって
「今、お前を鍛えている」と意識することで、
ずいぶんと筋肉の発達が違うなどということは、
ごくごく当たり前のこととして言われている。
また、
免疫力と精神状態が密接に関係していることは
科学的に証明されている。
そー思うと、
「今お前(っていうかおれ)のここは、病気なんだよ」
と自分に言ってあげることで、
自己治癒力があがるようなことは起こりそうだ。

ということで、
「今、お前、風邪引いているからね。
あと、よろしく」


2007/03/26(月)
音楽グループのように

誰かも昔言っていた気がするけど、
音楽グループのような感じでゲームを作れないものか。

レコード会社との関係、
メンバー間の自由な関係、
他のバンドとのジョイントなどなど、
とても軽くて、気持ちよさそうに見える。
だいいち、そのくらいの人数でゲームを作るってのが、
うらやましい。
音楽は、売るっていう面はあいかわらず大変そうだけど、
作る面では、技術の進歩が大いに役立って、
少ない人数、あるいは自分たちだけで、
作ることができるようになってきているらしい。
これは相当にうらやましい。
技術の進歩がハードの(表現力の)進歩に直結、
制作サイドの作業は高度化、肥大化するばかりな
ゲーム制作ってのは、どー考えたっていびつだ。

ゲームデザイナーとして広く名が知られている人はいるけど、
もっと、グラフィックならこの人、
音楽ならこの人、シナリオならこの人と
各々の仕事のスペシャリストの名前が注目されるといい。
そうすれば、
コラボレーションもうんとしやすくなる。
うちなんかは、ミュージシャンもプログラマーもいないので、
いつもどっかの会社さんとの共同作業になるけど、
どっかの会社さんに仕事をお願いするってのばかりじゃなく、
どっかの誰かさんと仕事をお願いするってことがあったら、
もっと共同作業が楽しいだろう。


2007/03/22(木)
フランスの数字

どっかの困った知事の発言から、
ふと
なんでフランスの数え方はそーなったのか気になった。

フランスの数体系はこれ
60以上の数字は、中世まで存在しなかったこともあって、
それより大きな数字は、とんでもないことになっている。
例えば、
99は( 20が4つに10 足して、さらに9を足す)と表現

11から少し表現が変わる(「.....ze」)ことから
10進法の影響もある。
16から再び規則性が変わることから、
16進法が利用されていたことは明白だし、
大きな数字の表現に20の倍数を利用することから、
20進法も使っていた歴史もありそうだ。
また、
60以上でルールが変わるところを見ると、
60進法を利用していた歴史もありそうだ。

しっかし、まー、
なんでこんなことになってしまったんだろ(笑)

60進法は、古代バビロニアの発明で、
天文の世界では今も生きている。
(1分=60秒、円周360度など)
10進法、20進法は
手の指の数、手足の指の数から、自然発生したと思われる。
となると、問題は16進法。
ま、まさか遙か太古にコンピュータプログラムを、、、
なんてことはなさそうだし、不思議だ。

16区切りってなんだ。
何からきた?何に使った?


2007/03/20(火)
ゲームは人を描けるか

ゲームは人を描けるのだろうか。
小説や映画や演劇やマンガのように、
じっくりとしっかりと「人」を描けるだろうか。

ゲーム的な遊びの仕組みの上では
むつかしそうな気がする。
インターラクティブである以上、
制作者の意図通りに、
人物像を紹介していくのが難しそうだからだ。

ゲームでもそれなりに喜怒哀楽を感じるものだが、
映画や小説のように大きく心を揺らされる
っていう経験は今のところない(当者比)。

でも、
(ゲーム機上での)エンターテインメント
つまり、ゲームでなくてもイイというのなら、
そういう仕掛けというか演出は可能そうだ。

大人でも満足がいくような、
しっかりと人を描いたエンターテインメント。
脳トレ系の遊び以外の大人の楽しみとして、
そこらへんが加わるとさらにおもしろくなるだろうなー。


2007/03/19(月)
井戸がかれる

井戸がかれる。
つまり、アイデアがでなくなる。
物作りに携わってる人間にとって、
これほど怖い状況はない。

最初からどのくらの量があるのか、
あるいは、今の残量がわかればいいんだけど、
(ま、実際には良くないけどw)
それがわからないから、
余計に不安だ。

井戸は汲みすぎると枯れるんだろうか。
「魚の産卵」並とI氏にからかわれるオレとしては、
そうだったら超やばい。
汲みすぎれば、枯れてしまわないまでも
一時期でも井戸の水がなくなるところまで行くんだろうか。
幸か不幸か錯覚か、
今のところ、
「アイデアが出ない」という状況は経験したことがない。
むしろ、今は、洪水状態でうっとうしい。
(もちろん、水の「質」と「量」は別の問題だ)

こんなとき思い出すことにしているのは、
京都のさる茶道の家元の言葉だ。
この人の家には名水と言われる水がわく井戸がある。
いつも、この水でお茶を点てる。
アナウンサーが、
「そんなに汲んでしまって、枯れてしまうのが心配じゃないですか」
と聞くと
「汲むから沸くんどす」と答えた。
(どす、とは言わなかったかもしれないけど)
それを聞いて目から鱗というか、
とっても勇気づけられた気がする。
イイ言葉だ。

地下水の活動と脳の活動に共通点があるとは思えないけど、
怖がらずに、「汲むから沸くんだ」と自分に言い聞かす。
その心構えってのは、同じかもしれない。


2007/03/14(水)
納得できる作用

企画の立ち上げ時期は、「ジョナサン仕事」がふえる。
「ジョナサン仕事」ってのは勝手な造語で、
ジョナサンなどファミレスやカフェでの
アイデア練り仕事のことをそうよんでいる。
(どういうわけか、ファミレスの中では
ジョナサンが一番仕事がはかどる)

ただ、
そういった「机の前」で
いいアイデア(当者比)が出るとは限らない。
っていうか、あまりでない。
うんうんと唸っているわりには、
あまり効率が上がらない。

アイデアが出るのは、
店を出て歩き出したときやコンビニに立ち寄ったときだ。
「あ、こういう考えもあるな」
「あ、あそこの部分がヤバイな」
といったことは、
そういうときに思いついたり、
思い出したりすることが多い。
(こういうのは意外とやっかいだ。
すぐ忘れてしまうに違いないから、
またどっかに入って、
すぐにメモを取らないといけないからだ)

それだったら、
最初からファミレスとかカフェに行かないで、
散歩していればよさそうなものなのに、
それだけだとこれがまたうまくいかない。
どうやら、
ファミレスやカフェでうんうん唸るという
「前儀式」がないとダメのようだ。
その時にある程度、考えを深めたり、
悩んだり迷ったり嘆いたりしないとダメなようだ。

えんえんと考えて、
脳内のワーキングメモリーを使い切ってるようなときには、
現状から脱出するような発想のためのメモリーが残っていない。
いったん、仕事をやめて、
ワーキングメモリーをクリアした後だと、
十分なメモリー(当者比)ができるので、
ふと思いついたりできるのかもしれない。

変なようであるが、
とても納得できる作用である気もする。


2007/03/12(月)
ゲーム以外

ゲーム以外の遊びイコール、
頭を良くする遊びみたいに固定化されてしまうのは
ちとおしい。
前頭葉の働きをよくしたり、
知識を得たり、常識力を計ったり、
パズルで頭を柔軟にする遊びってのは、
もちろんおもしろいし、
そういう遊びをゲーム機に持ち込んだ功績は大きい。
だからこそ、
その火はもっと延焼させないとおもったいない。

もっと広げられないだろうか。
単純に考えれば、
本屋にある(本の)遊びはすべて入るはずだ。
容量さえあれば、
テレビやラジオの遊びも入るかもしれない。
などなどm
同じ「脳を鍛えたりする」遊びばかり
増えるんじゃなくって、
もう少し水平に遊びが広がるとおもしろいんだけど。

個人的には環境ビデオ(映像)がすごく気になっている。
でもどうにもまとまらない。
そのままゲーム機で再現してもつまらない。
(そもそも、この発想が間違っている可能性もある)
不思議なことに、逆に、
ゲーム的遊び、
例えば風景にアイテムを隠したり、ルートの分岐を作ったり、
そういう要素を入れると、
とたんに本来のよさが消えてしまうのだ。
(というような気がする)
どうしたモノか、、、
よほどアングルを変えて見てみないと、
答えは見つけられないようだ。


2007/03/09(金)
雑誌と単行本

あなたが、新人マンガ家から
作品の持ち込みをされた編集者だったらどうするだろう。
いきなり彼の単行本を出版しますか?
たぶん、
雑誌で短期の連載をさせてみて、
その反応をもって適宜修正して、
連載を続けるかどうか判断をする。
連載できればそれを続けて、
連載中の人気をみて、
作品がたまったらそれを単行本化する。
あたりが常識的な考え方だろう。

いきなり単行本というリスクをさけ、
連載を以て、
マーケッティングとプロモーションをかねる。
すでに雑誌で読まれたマンガを単行本にしても売れない。
なんてことがないのは、
証明する必要もないだろう。
むしろ、雑誌で読んでいたからこそ、単行本を買うのだろう。
(袋に入った読んだことのない単行本はなかなか買えない)

さて、
あなたが、
新人ゲームデザイナーから作品の持ち込みをされた
プロデューサーだったらどうするだろう。
現状では、
いきなり、商品化するか、却下するか
どちらかに決めないといけないだろう。
マンガで言えば、
単行本にするか没にするかどうかを
ラフ段階で決めることになる。
そう考えると、
いかにゲーム企画立ち上げの仕組みが
いかに雑でリスキーなものであるかがわかる。
商品となりえない企画を立ち上げてしまうことも、
潜在的な力のある企画を退けてしまうのも、
どちらも痛い。

雑誌で連載、その反応を見て単行本化。
そういう仕組みをゲームの世界も取り入れられないか。
仕組み的にはもーそんなに遠い話ではない。
もう、制作社の意識の問題の段階だとさえ言える。
なんて話を今日したりした。


2007/03/06(火)
分母の数

全然、業界の事情を知らないので、
よくわからないんですけど、
ゲーム業界ってのは、
人材的に潤っているんだろうか。
量的にというより、質的に。
というか、
量と質ってのは多いに関係あるというか、
ある意味、同じことを言っている気がする。

どの世界でも、
飛び抜けた人ってのは、
全体の数パーセントといったところだろう。
ということは、
分母の数、つまり総人数が多ければ多いほど、
その業界には、
飛び抜けた人が多く出現するっていうことになる。

ゲーム業界は、
いまでもたくさんの人がやってくる
そんな業界なんだろうか。
つまりそれは、
ゲーム業界ってのは「夢」があるように見えるのだろうか。
って質問に等しい。
外からはどう見えるんだろうか。
中からだとよくわからない。

もし、あこがれるような世界じゃなくなっていたら、
消費者の動向云々以前の問題として
大変ヤバい。
どうしたら「夢」があるように見えるだろう。
「夢」といったってそう高尚なものである必要はない。
下世話な話、
金が儲かる、女性に持てる
なんてネタでもいい。
(そういう目的で入ってきた人が
大成できるかどうかは???だけど)

他の世界から入りにくい、
玄関がどこにあるのかわからない、
そういうシステムも問題だろう。
社員として入るのは正規のルートがあるけど、
企画を売り込むというルートとなると、
外の世界の人にはとてもわかりにくいだろう。
(っていうか、おれもよくわからない)
それも損をしている気がする。

発売されたソフトに対する賞だけじゃなくって、
オフィシャルな公募があってもいいと思う。
(あるのかな?)
座談会とか講演会とか、
外に向けて発信したり、
逆に外の世界の人を招き入れたりするとか、
ゲームの世界にかぎっても、
携帯ゲーム、PCゲームの作者たちと交流を持つとか、
そういうことも必要じゃないのかな。
どっかでかい会社が音頭をとってくれるといいんだけど。
いくらでも協力しますよー。


2007/03/05(月)
パワーゲーム

ゲーム業界にはとても友達が少ないんですけど、
作っているゲームのテイストが全然ちがうのに
どーゆーわけだか、
ちょくちょくご飯を食べたりする友達がいる。
そこで話題となるゲームは、
Wi*用のゲームか、PS*用のゲームかっていったら、
実は、Xbo*360のゲームだったりすることが多い。
(といっても、
おれはいつも「へー」って感心するだけの立場だけど)

映像がスゴイ、ボリュームがスゴイ、
ネタの作り込みがスゴイ
つまりパワーがスゴイってことらしい。
そこまで作るのは大変だろうな、
ここらは省略してもいいかも、
大変にならないように仕様を変更しよう、
(例えば、いつでもどこへでも自由に行けないように
バリケードを作ろうとか)
なんてあたりの心配事を物量と金、
つまりパワーで正面から解決してしまっている。
それがスゴイ。
どうもそういうことらしい。
360には、そういうゲームが数多くあるらしい。

良くも悪くもワンパターンなゲームデザインなんだけど、
パワーで納得させてしまう、
まるでハリウッド映画のようなパワーのあるゲームが
いっぱいあるんだそうだ。

360は日本でのセールスは今ひとつと聞くけど、
なんだか、そー楽観できないというか、
日本のゲームとゲームファンだけが
世界から孤立しつつある、
そんな予感がしないでもない。
日本のゲームは、
今の日本映画のように、
日本人独自の感性に訴えることに注力した、
島国エンターテインメントになってしまう
そんな恐れを感じないでもない。

なんて、おれが言える立場じゃないんだけどね。


2007/03/02(金)
10年

もうゲーム作りを10年続けている。
自慢じゃないけど、っていうか恥だけど、
今まで1つの仕事を10年以上続けたことがない。
デザインの仕事をしたり、イラストを描いたり、
マンガを描いたり、CGを作ったりしてきたけど、
どれも10年は続かなかった。
理由はいつもこの2つ。
1)飽きた
2)自分の性格に合っていないことがわかった

しかし、
ゲーム作りもまた、
さすがに飽きたし、
1年以上も同じプロジェクトを続けるというのは、
性格にあっていない。
(2時間で終わるくらいのもが合っている)
なのに、
不思議なことに、もうやめようかなと思ったことはない。
(いや、正確には継続的にそう思ったことはない)
なんでだろう。
実のところ、
自分でもよくわからない。

10年前、ちょうどPS1が出たとき、
わまりで、
へんてこなゲームを作っている連中がいっぱいいた。
おれを含めて、
まわりからは奇ゲー作家と呼ばれたりした。
しかし、
今ではそのころの奇ゲー作家は、
もうほとんどゲームを作っていない。
寂しい限りだ。
逆に言えば、
未だうちがゲームを作り続けていることのほうが不思議だ。
ありがたい話だ。
絶滅危惧種と言って良いだろう。
そうなると、
クライアントと応援してくる人たちは、
はさしずめ、動物保護者ってところか。




« 人間風車: 2007年2月 | | 人間風車: 2007年4月 »