人間風車

2007/07/31(火)
もろもろ

ガソリン代ってのは、価格の半分以上が税金だそうだ。
だったら、
こういう原油高のときくらい、税金額をさげて、
ガソリン代を調整して欲しいもんだ。
ガソリン代って、輸送費でもあるわけだから、
あらゆる商品の値段に影響するはずだからだ。

それからガソリン代にかぎらず、
税金ぶくみの価格に
さらに消費税がかけ算されるのは、
どーも納得がいかない。

常識を疑えとか
失敗を恐れるな
試行錯誤せよ
誰もやっていないことをやれ
すぐに実行しろ
失敗の数だけ前に進める
などなど、
ビジネス成功の格言は多いけど、
そのどの格言も釣りに当てはまるとふと思ったりした。
釣りという遊びがおもしろいはずだ。

うわさの『オブ●ビオン』という
X360のRPGを買ってみた。
ひどいねー、あの文字のサイズ。
うちのテレビは42インチなんだけど、
よーーーーく見ないと文字が読めない。
そのくらい文字が小さい。
書体もどうなのかなー。
RPGで文字を読むのがおっくうになるというのは致命的だ。
(それでもなくても人の話を聞かないのに)
ローカライズにはもっと気を遣って欲しい、、、
文化の輸入くらいの気持ちでやってほしい。

それにしても、
このゲームに限らず、最近のゲームで、
文字が小さいなーと思うことが多いのは、
ぼくだけだろうか。
以前はあまりそういうこと、
感じたことがない気がするけど、、、
気のせいだろうか。


2007/07/27(金)
アナログとデジタル

こと絵を描くことに関して言うと、
アナログ時代に比べて、
デジタルの絵を描くほうが、
総合的に見ると作業量が増えた。
たとえば、
アナログ時代だと自分で色をつけたりすることすら、
そうは自由ではなかった。
カラーで絵を描いてスキャニングしてでは、
作業時間もコストも質も落ちるからだ。
だから「色指定」という形で、
製版の段階で「網」を貼ってもらうことが多かった。
そうした作業が印刷所から、
イラストレーターの手に戻ってきたことが一因だ。
印刷解像度(1インチに350本の線を書く細かさ)
なんてのも気にすることがなかった。
っていうか、気にしようがなかった。
小さな絵だったとしても問題なかった。
それらは製版段階で、
スキャニングする際の調整する問題だった。
それ以外にも、
注文が多くなったこともある。
デジタルの絵は総じて言えば、
アナログの絵に比べて修正が簡単だ。
色調の調整、拡大縮小、回転、
それに複製や削除、
アナログ時代ならとんでもなく大変な、
というか不可能だった修正作業でも可能になった。
あるいは、可能としても、
これまた印刷所の仕事であった。
そうした作業の可能性と軽さが、
注文の軽さに直結しているのが、もう1つの要因だ(笑)

というようなことが、
デザイナーにも編集者にもあるようだ。
多くの人が、
アナログ時代より作業が増えたと実感している。
コンピュータの助けを借りられるようになったおかげで、
あるいはインターネットが普及したおかげで、
作業が増えたってのは、
なんとも奇妙なというか皮肉な話だ。

そうそう、じゃー、
エネルギー保存の法則ならぬ、
作業量保存の法則から言って、
イラストレーター、デザイナー、編集者の
作業が増えた分、いったい誰の作業が減ったんだろう。
営業の人?印刷所?
(たぶん、どちらも
「増えた」と感じてるんだろうなー(笑))


2007/07/24(火)
数字に一喜一憂

(現代の)人間と他の動物を分ける
決定的な要素の一つは、
数という概念をもつことだろう。
数と広げなくても、量でもいいだろう。

体重の数字。
体脂肪の数字。
貯金残高の数字。
試験の数字。
100m走の数字。
車の燃費の数字。
自分の歳の数字。
家の大きさの数字。
持っているゲームの数字。
などなど。
あらゆることを数字で測る、
あらゆることを数字で比較する。
(現代の)人間ってのは、
この手法にどっぷり使っている。
結果、
あらゆる面で、数字で一喜一憂する。
数字を扱っているつもりが、
いつの間にか数字に操られているようなものだ。

今でのこうした数字に無頓着な民族がいる。
おそらく、昔の人もそうだったろう。
どうしてまー、
こんなに数字にとりつかれるというか、
あやつられるようになったんだろうか。
不思議だ。

かくいう自分も
断食明けから体重をずっと記録している。
1つのことを2ヶ月も続けること自体、異例だ。
続けられている理由は、
達成感(この場合は体重が落ちていくこと)が
客観的に感じられることだろう。
鏡を見たり、腹をつまんだり、
体調をかえりみれば、それなりに
体重が落ちていることは自覚できるんだけど、
どーも自分自身で、それらの体感を
「客観的事実」として受け入れないところがある。
それが数字となると、
すんなり受け入れてしまう。
数字が科学的真実に見えてしまう。
数字のほうこそバーチャルなはずなのに、
数字の方が実態を持ってるように感じてしまうのは、
おかしな話だ。
しかも、
こうした感覚は、どー考えたって危なっかしい。
病んでますナー、現代人は、っていうかおれ(笑)


2007/07/23(月)
タダとの戦い

PCのゲームや携帯電話のゲームを作るのは、
「タダとの戦い」だそうだ。
たしかに、今では
簡単なゲームならPCでも携帯でもタダのものが
ゴロゴロ転がっている。
しかも、かなり出来が良かったりする。

そうした場で、
売り物のゲームを作るとなると、
タダものではできないモノを作るしかない。
より高度な技術。
よりリッチなグラフィックやサウンド。
よりリッチなシナリオやゲームデザイン。
そしてよりリッチなボリューム。

これはタダと「闘う」には仕方がない対策だろう。
問題なのは、
そうして付加した分の作業費だ。
タダとの戦いは価格の戦いだ。
いくらリッチにしたといっても、
タダとかけ離れた値段設定はしにくい。
内容同様値段も、
「ちょっと内容にガマンすれば、お金を出すよりマシ」
と思われてしまったら負けだからだ。
そのボーダーライン上に値段設定をしないといけないので、
どうしても低めに設定せざるを得ない。
ということで、
プラスアルファされる作業費と
価格とのバランスが問題になる。
往々にして、
金を出すなら価格以上の価値を求めるのが
市場心理ってーもんだろうからだ。
つまり、
プラスアルファされる作業費分を価格で補えない、
費用対効果が小さい、悪い、
そういう話になりかねない。

外から見てるとなんだかとっても
悪い循環に陥っている気がするのだけど、
じゃー、どうすればいい?
と言われると、全くイイアイデアはないですねー。
一つあるとすれば
「タダでも商売になる」
そこらへんにヒントがあるような気がするんですけど。


2007/07/18(水)
自分で捕まえられるモノ

自然食を摂ろう、粗食にしようという
教えではとてもわかりやすい「目安」が
使われることが多い。
例えば、
「ひらがなで書かれている食べ物をとろう」
(漢字もふくむ)
というもの。
そばやうどんはいいけど、
ラーメンやスパゲッティーはダメ。
ごはんはいいけどパンはダメ。
という具合だ。
カタカナ食品は欧米の食品が多い、
(ゆえにカタカナ表記)
つまり、
欧米の食品は砂糖、脂質が多いという理屈だ。
日本式粗食をめざすなら、
たしかにこの「ふるい」はわかりやすい。
他には、
「肉、野菜、穀物の摂るべき割合は、
歯の構成通りが正しい」
というのもある。
草食動物の歯は、
草をちぎる前歯と草をする奥歯で構成されている。
犬歯はない。
肉食動物の歯は、
獲物を突き刺し、引きちぎる歯で構成されている。
よって擂り粉ぎのような奥歯はない。
人間の歯は、
草を刈る前歯、肉を引き裂く犬歯、穀物をする奥歯がある。
人間は、野菜も肉も穀物もたべる雑食性だからだ。
各々の歯の本数の割合が、
そのまま、人間が食べるべき、
野菜、肉、穀物の分量に比例するという考え方だ。
これもなんだか妙に説得力がある。
正確な割合はわすれちゃったけど、
たしか、
野菜:肉:穀物=3:2:5くらいだったかと思う。

そんな「目安」の中でおもしろかったのが、
「自分で採れるモノをたべろ」という目安だ。
例えば、魚なら、
貝~鰯~鯖~鰹くらいまでならなんとかなりそうだが、
マグロ、鮫、鯨(魚じゃないけど)
あたりまで来るとむつかしそうだ。
動物なら、
鶏くらいならなんとかなりそうだが、
牛なんて絶対にムリだ。
年齢によっても変わってくる。
赤ちゃんや年寄りは、
魚でもせいぜい、
貝やじゃこくらいしかムリだろう。
だったらそれを食べるのが「正しい」というわけだ。
その人が採れるモノのカロリーと
その人(年齢)が必要とするカロリーの関係が
妙にあっている感じがしたりするのがおもしろい。

こうした目安を「科学の目」で見てみると、
怪しいとか根拠がないなんて話になる。
実際、あやしい「目安」も少なくない。
でも、なんでしょうね、
この妙な納得してしまう感じは(笑)


2007/07/13(金)
アメリカ式リアリズム

懲りずに『GHOST RECON 2』などを買ったわけです。
例によって、
X360の1人称シューティングゲームです。
周りのみんなに不思議がられるけど、
X360の1人称シューティングゲームしか、
最近遊んでいません。
『ピニャータ』とか『アイドルマスター』とか
X360のソフトの中でも、
ぼくが遊びそうな(とまわりがイメージしている)
ゲームは全然興味がないです。

で、
『GHOST RECON 2』に限らず、
X360のこれら撃ちモノのグラフィックは
スゴイですね。
リアリティーを出すというベクトルに特化してて、
目指す方向に「ぶれ」がないので、
その分進化が早いわけです。
で、『GHOST RECON 2』
なんかをいじってみると、
彼らのリアリティーの矛先が、
グラフィックだけでなく戦闘の仕方や様子までに
及んできてるなーと感じます。
撃たれると死ぬ(笑)
集団で行動する
見つからないように行動する
常識的な武器の破壊力
常識的な移動速度と能力
みたいなものがどんどんリアルになっていってる。

『GHOST RECON 2』なんか、
もー撃たせてもらえないときすらあります。
自分のチームをうまくコントロールして敵を制圧する
っていう管理職的立場にされてしまう。

こうなるとちょっともー、
作業が多すぎてぼくなんかには辛いですね。
戦闘方式がリアルになっていっても、
相変わらず、そのコントロールは、
あの十字キー+ボタンという
コントローラー(という非現実装置)で
行うわけです。
この矛盾が大きくなりつつある。
画面はリアルだけどルールや操作系はゲーム、
そんなバランスが「次世代マシン」の
正しいバランスのような気がしてるってのは、
単にゲームが下手なオヤジのひがみでしょうか。


2007/07/11(水)
DSソフトの暴走

ちょっと前、
今のDSソフトの学習系というかツール系の氾濫はどうよ、
みたいなことを書いた。
市場がさめる云々より、
本格的なゲームを作る土壌や技術が
なくなるのでは、という危惧からだ。
土壌や技術とは、
単に、プログラムやグラフィックなどの
具体的な製作現場での技術だけを
言っているのではない。
手間も時間もお金もかかる、
おもしろくなるかもわからない、
そして売れるかどうかもわからない、
そういう「遊び」の開発の
当たり前のリスクを乗り越えて、
新しい遊び、オーソドックスな遊びを
作っていこうという
気概というか方針というか
根性というか使命感というか
遊び心というか夢というか
つまり、
ボスサイドの開発方針、決定の「技術」
というものも含まれる。
そういう自分たちの中の不安や恐れみたいなものを
残り超える技術がなくなるのを危惧してたわけです。
(ツール系のほうがうんとそのあたりの
リスクが小さいから)

でも、最近ちと考えが変わった。
最近の脱ゲームソフトは、
単に頭が良くなるだけでなく、
マナーや金銭出納帳や美顔系のソフトのように、
日常生活のあらゆることのサポートをしだした。
おそらく、これからは、
ダイエットや体重記録、
お受験やテスト勉強用学習ソフト、
冠婚葬祭の手続き、おしゃれ指南、
格闘技通信講座、天体の謎や物理シミュレーター、
私のマイホームプラン、日曜大工の薦め、
大京町の歩き方
などなど、
いろんなソフトがでてくるムードだ。
こうなるとこれはこれでおもしろい(笑)
もっと暴走してくれるとうれしい。
DSでやる意味は?
DSでできること超えてる?
そんなソフトまでで出すと、
それはそれでアートとしておもしろいし、
市場もにぎわっていいと思う。


2007/07/09(月)
ペットボトル

別にエコがマイブームになっている
わけじゃないんですけど、
そういう盲点って、
あるもんなんだろうなーと思ったので。

今回は『通販生活』の受け売りなんですけど、
ペットボトルの回収が、
意外にエコじゃないということらしいです。
他の県のことは知りませんが、
東京都ではペットボトルは、
資源として再利用されるために
別途回収されています。
きっと、
回収されたペットボトルは、
全てチップに砕かれ、
再びペットボトルの原料になっている。
そう思っていたんですが、
再びペットボトルの原料となるのは、
回収されるペットボトルの1割程度だそうです。
それ以外の9割は燃やされている。
その時の廃熱をかろうじて利用している。
その程度らしいです。
そうなっている原因はコスト。
回収からチップ化までにかかるコストが大きい。
石油から新たに作るに比べて、
回収して原料として再利用する方が、
うんと高いモノになってしまう。
故に再利用率が高まらないのだそうです。

資源を大切にすることや
安全で安心な素材を使うこと、
環境を保護することとコスト高は、
今の社会ではカップルのような組み合わせで、
例えば、
自然林を原料としない紙とか、
石油に依存しないエネルギーとか、
農薬を使わない有機野菜が高いとか、
それらを原料とした調味料が高いとか、
天然の魚が高いとか、
天然素材の家具や服が高いとか、
健康と安全は割高、
健康と安全は金で買うもの、
もうすっかり、
そういうものだということに
なっています。
効率化を極端まで推し進めた結果が、
現在の社会なわけですから、
それよりもコストを下げるというのは、
無理な話っちゃー無理な話でしょう。
コストとは回り回って、
私たちが払う対価や税金になるわけですが、
それは、
地球と自分たちを守るための
「必要経費」と考えるしかないでしょう。

で、ペットボトルの問題。
ペットボトルにまつわる高いコストも、
地球と自分たちを守るという意味では、
必要経費と考えるべきだと思うんですが、
(それ故、回収というコストをみんな
文句も言わずにやっているんだと思うし)
ペットボトルの再利用には、
回収したペットボトルの輸送
→選別→洗浄→粉砕→加熱→再加工
というような手順が必要になりますが、
このどの過程でも、
燃料としての石油が必要になります。
上の作業に必要な石油は、
1本のペットボトルについて、
ペットボトル4本分の石油が必要とのこと。
つまり、
ペットボトルを再利用することは、
新たにペットボトルを石油から作ることの
4倍もの石油を使ってしまうことになります。
そもそも、
石油資源を節約するのが、
ペットボトルの再利用の目的であるとすれば、
これは大きな矛盾となる。
『通販生活』のレポートはそう警告しています。

これは目から鱗っていうか、
資源再利用のむつかしさを教えてくれるというか、
かといって、
じゃーそんな再利用はやめてしまえというのも、
なんだか違う気もするしー、
むつかしいなー、ジレンマだなーというか、
資源再利用は良いことに違いない、
100%良いことづくめのはず、
という盲目的姿勢を悔い改めないといけないなーと
思った次第です。


2007/07/06(金)
1円パチンコ店

1つの玉1円というパチンコ屋が出たそうですね。
今のパチンコは1つの玉を4円で貸し出してます。
ので、
1つの玉1円というのは、
従来の1/4の価格で遊べることを意味します。
(たぶん、リターン1/4もになってるんだと思うけど)

パチンコ市場はこの10年で、ずっと、
30兆円くらいの産業だったらしいですが、
その間に客は1200万人くらい減ったそうです。
客が減ったのに売り上げが変わらないということは、
1人の使う額が増えてることを意味します。
もー、
1人のパチンコに使う額が、
その人の人生に影響を与えるくらいの
額になっている気がします。
事実、貸し金法が変わって、
貸し出し審査が厳しくなったことで、
パチンコユーザーが減ったという話もあります。
(今では、パチンコ屋の敷地内に、
無人ローンコーナーがあるのはふつう)

そういう背景をもとに、
「1円パチンコ」がでたよう。
つまり、
お金、もとい景品(笑)をもうけるということより、
パチンコ自体を長い時間楽しんでもらう、
そういうゲーセン的場所にしようという
ことらしいです。
今のパチンコ台がそのような遊び方に
フィットしているのかどうか、
ちょっと疑問だったりもするのですが、
でも、
こういう考えが復活してくれたことは、
個人的にはうれしいですのです。
さてさて、市場の反応はどうなんでしょう。

今の時代、
みんな、
「自分の時間をつぶしたい」と
思っているのかどうか、
そのあたりにかかってるような気がします。


2007/07/05(木)
教育か応報か

悪いことをした子ども達は、それなりの事情があって」
こういう発言を聞いたりすると、
やはりちらと考えてしまう。

ぜんぜん詳しくないのでアレですが、
犯罪を犯した者への懲罰は、
基本的に「教育刑」つまり、
悔い改め、更正するための戒めという
意味合いが強いようだ。
「この罰をよ~くかみしめて、
今後、ちゃんとした生活を送るように!」
というわけだ。
ときどき、
「え!こんなに軽い刑!」
と思う判決に出くわしたりすることがあるのも、
根底に、こうした思想があることが
大きく影響しているようだ。

教育刑に対して、
教育刑の「慈悲」のようなものを
削除したのが応報刑である。
乱暴に言ってしまえば、そういえるかもしれない。
教育刑ほど、
罪を犯した者の再生を重視しない訳なので、
原則、その分、罪は重いモノになる。

応報刑であるべきか、教育刑であるべきか、
どちらが正しいのか、
もちろん、自分なんぞにはちっともわからない。
しかし、
マスコミが妙なあおり方をすることも影響してか、
世論としては、
応報刑を望んでいる声が
日に日に大きくなっていってる気がする。
教育刑がうまく作用しているのか、
つまりホントに再犯が減っているのか?
少年だからと言って刑が軽くなっていいのか?
飲酒運転のように、
過失だからと言って刑が軽くなっていいのか?
そういう気持ちが大きくなっているからだろうか。
あるいは、
最近、悲惨で耐え難い事件が頻発しているからだろうか。
そしてまた、それがこの先、
もっと増えそうだという不安があるからだろうか。
重い罰という
犯罪の「抑止力」を欲しているからだろうか。

少年法に関して言えば、
何歳を境に、大人と同じに扱うべきか、
それはとても難しい問題だし、
何歳かはアレとして、
たしかに、
罪に問うのは酷な年齢というものもある。
しかし、そのことと、
加害者が誰であるかと言うことは関係のない、
被害者の感情を考えると、
誰も罪を負う者がいないという判決は、
被害者に気の毒すぎる気がする。
例えば、
不幸にして未成年者が罪を犯した場合は、
保護者が罪を負うというのはどうだろうか。
保護者とは、
子供がまだ一般社会で「成立」しえない歳の場合、
その「管理」と「保護」の責任を負うべき立場の人のはずだ。
罪を犯した者自体がまだ、
社会の責任を負うには幼すぎる場合には、
同時に、まだ、保護者は、
その子の責任を負うべき立場にあるということだから、
管理不行き届きということになるからだ。


2007/07/04(水)
自衛手段

しっかしまー、
こう簡単かつ巧妙に
食品の「偽装」ができてしまうと、
スーパーで成分表をちゃんとチェックしてから買う
なんていうことでは、
食の安全を確保できないってことですね。
だます方は巧妙だし、
お役所の監査はいい加減だし。

こうなると、
もっと積極的な自衛策を講じるより他がない。
かといって、個人レベルで
正しい成分内容になっているかを
調べるなんてのはムリ。
ここは消費者勇士で共闘しないとダメだろう。
たとえば、
1口100円で気になる商品の
DNA鑑定を要請できるシステムを作る。
1万口集まったら、
研究機関に依頼して、その商品のDNA鑑定をする。
1口100円の「賄賂」を募って、
企業の利益ばっかり考える政治家に贈る。
そして、消費者の利益になるように働いてもらう。
(冗談ですよー)
実際、
例の銀行破綻のときなどは、
結局たくさんの税金が使われた。
つまり、
消費者がたくさん対価を支払ったことになる。
1人あたりいくらの負担になったか知らないけど、
おそらく
1口1万円の賄賂を贈ったほうが
「安く」すんだに違いない。
そういう賄賂を贈ればきっと、
政治家はちゃんと消費者の方を見てくれて、
銀行にペナルティーを与え、
責任者を罰してくれただろう。
(冗談ですよー)

食品やお金の問題だけじゃない。
町の治安とか、子供の教育とか、
自然環境を守るとか、
生活のあらゆる面で
政府がダメ、企業がダメと言っていても
仕方がないので、
自分たちでお金を出し合って自衛する。
そのくらいのことをしないといけない
時代なんじゃないかと思ったりしました。


2007/07/03(火)
タッチするだけ

たまたま今月号の『PEN』を読んでいたら、
ウエッブデザイナー特集だった。
とくにウエッブデザインに興味はないんだけど、
遊びの要素のあるサイトの紹介記事を
読んでいくうちにだんだんと、
タッチすると何かが現れる。
タッチすると何かが動く。
タッチすると何かが消える。
タッチすると何かが鳴る。
という
単純な遊び?要素だけでも十分におもしろいのでは?
そこに、
物語性、
(解決するための)戦略性、
(解決するための)思考性、
その他、収集、謎解きなどの目標、
そういう遊びを足してしまう方が、
遊びのフォーカスをぼかしてしまったり、
遊びを重いモノにしてしまったり、
遊びを凡庸なものに
感じさせてしまったりするんじゃないかなー、
少なくとも、
ここで紹介されていたサイトが
そういう要素をプラスしてたら、
きっと魅力は半減してただろう。
そう思うと、
入り口が広くなるように、
あるいは、
遊びやすいようにという理由で、
安易に、上のような、
いわゆる「ゲーム性」を足してしまうことは、
ちょっと危険なのかもなー。
と思ったりした。
もっとも、
タッチするだけとするならば、
クリックすると何かが現れたり消えたり、
それが強烈に生理的な快感となることが、
大前提となると思うけど。


2007/07/02(月)
旭山動物園

旭山動物園に行ってきました。
とくに珍しい動物がいる訳じゃないのに、
楽しかったです。
つまり、
私たちは珍獣奇獣が見たいという
見せ物的楽しさを動物園に求めている
わけじゃないってことっすね。
ここら辺をまだ多くの動物園が勘違いをしている。
逆に、
いち早くそうじゃないと気がついた
旭山動物園ってスゴイってことですね。
じゃー、
何が楽しかったかというと、
動物たちが自然な姿を見せてくれる。
その姿をいろんなアングルで見ることが出来る。
この2点ですね。
動物たちが自然界にいたときに見せる
「普通」の行動ができるように
すみかの形をつくっているわけです。
例えば、
オランウータンは高い木の間を行き来しますが、
そういう行動が取れるように
高いポールが2本立てられていて、
その間にロープが張られている。
オランウータンが高い所に貼られたロープを行き来する
その「普通」の姿に客はやられてしまうわけです。
動物が生き生きと楽しそうにしている姿を見る。
このとき、
観客と動物たちは、
見る者、見られる者という立場でなく、
今、同じ空間と時間を共有してる友として、
同じ立場というか目線で存在しているわけです。
そういう関係が楽しいわけです。
不自然というか窮屈な檻に入れられた動物たちを
見下ろす視線で見ることは、
楽しいことじゃないことに気がついちゃった。
そんな気がしますね。




« 人間風車: 2007年6月 | | 人間風車: 2007年8月 »