人間風車

2009/12/26(土)
メディアの必然

>弊社は本日が閉業最終日となります。
今年一年、お世話になりました。
また、ご迷惑をお掛けしました。
ともかく、ありがとうございました。
来年は、
1月4日(月)より営業の予定であります。

先日の日記で、
なんで漫才とかテレビでやれへんの?
(あ、にわか関西人化してる)
と思ったら、
昨日、コント番組があった。
普段は反射しゃべり芸で
がんばっている芸人さんたちが、
本来の芸を披露しあう番組だった。
それはそれでとってもおもしろかった。
ただ、
年に何回かのイベントならいいけど、
これを毎週は辛いなーと思った。
芸を披露する側も、
見る側もつかれるだろうなと。
不思議だ、昔は平気だったのに。
いつのまにか、テレビの前では
すっかりテンションを上げづらくなっていて、
今更上げろと言われてもそうはいかない
体になったんだな。
というこで、
そういった今のテレビのとりまく環境を考えると、
ひな壇芸人が反射しゃべり芸を披露する
ってあたりが妥当なんだな、
ある意味、正解なんだなと悟った。

ただし、この先の憂慮はかわりない。
きっと、もっと内容が
わかりやすいけど、チープになって、
バカにされ、あきられ、
メディアの王者の席を明け渡すことになる。

苦しいのは、
わかっちゃいるけど、
過去への巻き戻しも許されないってところだ。
昔の、よきテレビ時代には戻れないんだ。
こうなっていったのは、必然なのだ。
生き物に寿命があるように、
メディアにも寿命がある。
ブームにも寿命がある。
かつて、出版やラジオや映画が
メディアの王者を明け渡していったのと
同じように、テレビもそれを失う。
これは必然なのだなー。

昨今のゲームの売れ方。
数百万本売れるものと
1万本も売れないソフトの2極化が進んでいる。
数百万本売れるソフトは、
ソフトと言うよりすでにイベントだ。
きっと、ユーザーの間では、
ゲームは、年に数回、
そういうイベントを体験できればいいという、
M1的イベントになってるのかもしれない。
そしてこれもまた、
必然なんだろうな。


2009/12/24(木)
テレビの負のスパイラル

M1はすっかり年中行事になったなー。
同じような番組が、30年くらい前にあった。
THE MANZAI
ちょうど今のM1のコアユーザーの年頃だったので、
すごく熱狂してた覚えがある。

不思議なのは、
M1がこんなに人気があるのに、
漫才番組が増えないことだ。
(っていうより、存在するのかな)
レギュラー放送するほど
漫才が求められてないということなのかな。
年に1回のお祭りだから楽しめるのかな。

今のテレビにあるのは、
ひな壇芸人が、
お題(ゲストやVTRなど)についての
反射的なトークをすることだけ。
漫才の技術は必要ない。
逆に、アドリブが苦手な人は
漫才が得意でも通用しない。
M1で高得点をとったコンビでも、
テレビでブレイクできない。
パンクブーブーも
今からすでにハラハラしている。

漫才を愉しむには
ながらながらでは無理だ。
ちゃんと向い合って集中して聞かないと駄目だ。
見る側にも
ある程度のテンションが求められる。
M1を見た後に、
軽い疲労感を覚えるのはそのためだ。
ゆえに、話し手も
込み入った話や鋭い角度の落ちが使える。
あるいは、ちょっとヤバめなネタも使える。
(見ている側のテンションが高いから、
差別的な意図でないことを理解してくれるから)
M1のおもしろさは、
そういう、見る人のテンションに
支えられているとも言える。

一方、普段のテレビといえば、
日本人がわかりやすい話しをしているのに、
ふつうに字幕が入る。
ひどい場合には、
爆笑ポイントのカウントダウンまでやる。
これでは視聴者は
全く集中力を必要としない。
すごく低いテンションでテレビに接する。
そのため、どんどん理解力が落ち、
その落ちた理解力に応じた番組しか
受け入れられなくなっていく。
その要請に応じた、
わかりやすいが、くだらない番組が供給される。
そして、視聴者にバカにされ、
やがて、見放される。
これは、負のスパイラルだと思う。

サービスなんだから、
視聴者にテンションを求めるのは間違っている。
より視聴者にわかりやすくする必要がある。
そういうサービス精神が
(それ自体はとても大切だと思うけど)
完全に暴走している感じがする。
サービスと言いつつ、
視聴者を下にみている、
バカにしているとさえ見える。

視聴者はバカじゃない。
視聴者はちゃんとテンション高く
楽しむ力も用意もある。
M1はずっと、
そのことを証明してきてる気がするんだけど、
テレビの負のスパイラルは止まらない。
加速している感すらする。

この危険な香り、
今のゲームの世界にも感るのは
あたしだけだろうか。


2009/12/21(月)
年末ジャンボ宝くじ

生まれて初めて宝くじというものを買った。
今まで、パーティーの景品とかに
買ったことはあるけど、
自分用に買ったのははじめて。

不思議なのが、
ここでは1等が##枚出た!
という店の宣伝。
宝くじは、相当確率の低いわけだし、
完全なランダムなわけだから、
一度当たりが出た店から
もう1回当たりがでる確率は、
今までに当たりが出てない店より低くなる気がする。
(同じ枚数がはけたという前提でね)
それはたとえば、
3人がサイコロを振って
Aさん、Bさんは、6の目を出したことがある
Cさんだけがまだ6の目を出してない。
となったとき、
次にサイコロを振るとき、
6の目が出やすいと思うのは誰?
という問題と同じだ。
なのに、
1等出ました!が宣伝文句になる。
不思議だ。

それはそうと、
宝くじはどうして発売前から、
当たりの額や本数を算出できるんだろう。
こういうのって、
総売上の#%を賞金とする ......(A)円
(A)円/賞金の上限額 ......(B)本
みたいな決め方をする気がするんだけど、
当たりの額や本数を決める時点で、
何枚買われるかわからないわけだから、
そうはいかない。
過去の売上数から想定する?
もし、
当選番号が買われていなかったら
(デッドストックになっていたら)、、、
もし、
ハズレの宝くじの買われた枚数が
異常に少なかったら、、、
そういうリスクは、
大量の販売数ってことで、なくなるのかな。


2009/12/16(水)
頭を切り替えないと

PSP goは、ある意味画期的なマシンだったので、
とても期待してたけど、
思ってたほど、周りの人気は高くない。
なにが画期的なのかというと、
ROM(UMD)を差し込むスロットがない。
つまり、
リアルショップで売っているゲームは遊べない。
遊べるソフトはダウンロード販売のゲームだけ。
その思い切りが画期的なものだった。

しかし、
ネット上の反応なんかを見ていると、
そうした方針を好意的に見ている、
あるいは、未来的に見ている意見は少ない。
むしろ、ネガティブな意見が多い。
その中でも、特に、
ダウンロード・ソフトなのに高い!
という意見が多い。

ちなみに、
弊社ソフト『福福の島』でいえば、
UMD版は4800円、
ダウンロード版は3800円。
ほぼ、20%オフな感じ。
すでに発売されたソフトであること。
the BESTシリーズ(のUMD)より高いこと。
パッケージ、UMDという物質がないこと。
自分でダウンロードしないといけないこと。
自分のマシンのメモリを消費すること。
ネット上のコンテンツは「タダ」が原点であること。
それに、中古として売れないこと。
そうした割引されるべき点と
20%の割引のバランスが悪いということだろう。

ダウンロード販売には、
いくつもの高いハードルがあるけど、
とくに値段設定は、むつかしそうだ。
ただ、
むつかしく感じているのは、
従来のROM販売の延長、
バリエーションとして
ダウンロード販売を考えているからだろう。
そもそも、全く違う。
ゲームの内容、作り方、売り方、
全部全く違う。
ひょっとしたら、
八百屋と工業用重機販売くらいの
価値体系の差があるのかもしれない。
作り手、売り手側は、
そう価値観を切り替えない限り、
いつまでたっても、
「むつかしい~~~」と
ぼやくだけになってしまいそうだ。


2009/12/14(月)
自由と権利

大学時代、
遅い第二次反抗期を迎えていた私は、
ありとあらゆる大学の体制、システム、ルールに
反発していた。
その多くは、反発したいがための反発であったが、
いくつかは、今思っても、
こちらの言い分が正しい反発であった。
その中でも忘れられないのが、
校内でのパフォーマンス用に、
レーザーを使いたいという申請のことだ。
こういう申請は、
大学のいわゆる事務方に行うのだけど、
この事務方の判断で使用がNGとなった。
「レーザーが人の目に入る危険がある」
「レーザーは空に向けて照射するので問題ない」
「もし、そのときヘリコプターが飛んできたら、
飛行士の目に入る危険性がある」
......
本当にこういうやり取りだったんです。
まずNOありきの姿勢を崩さない事務方と
話がまとまるわけもなく、
たんかを切って、強行突破する!と言ったら、
教授会にちくられて、
教授陣からお説教をくらうことになった。

これに限らず、
いくつもトラブルを起こして、
教授会呼び出しなんて、始めてでもなし、
どーってことないやと思って出かけていったが、
その中で敬愛していたO先生に言われた一言に
とても大きなショックを受けた。
「たしかに、(その)ルールは理に合わない。
しかし、
世の中がこの学校のルールだけというわけではない。
この学校のルールが嫌なら、外の世界にでればいい。
この学校の中にいながら、
この学校のルールに文句をいうのは、どうか」

都合のイイところだけ、
この学校にお世話になっておきながら、
ちょっと気にくわないところがあれば、
反発したり無視したりする。
親の世話になっておきながら、
親に反発する矛盾。
まさに第二次反抗期そのもの。

理不尽と思うなら、外にでればいい。
自由が手に入れる、ただし、権利は失う。
都合のイイところ取りは許されない。
それが社会というものだ。
ということをO先生に指摘されて、
ぐ~~の音もでなかった。

PS:
結局、それでも再度の交渉で
なぜだか、
レーザーは使えることになった。
しかし、
そもそも学生に使用が許されている低出力のレーザー。
野外ではまったく見栄えがせず、
ちっとも盛り上がらないうちに、
パフォーマンスは終わった。
いっそ、中止になっていれば、、、と思った。


2009/12/11(金)
禁止!

マリス博士の奇想天外な人生
にこんな一節がある。
(この本、とても面白いですよ)
彼が務めていた化学会社が大きくなって、
安全管理部という部署ができた。
危険な化学物質から研究者を守るために、
危険物の指定と取り扱いを決める部署だ。
やがて、
この部署の危険に対する定義が暴走する。
おそらく最初は棚に並んでいる薬品について、
つまり現実について、
危険かどうかを判断していたと思うわれるが、
やがて、危険物の友だちはみな危険物。
「危険」という言葉やイメージが現実をはなれ、
仮想や仮定の世界で、暴走し始める。
その結果、
金属ナトリウムは危険である(たしかに!)
塩素ガスが危険である(たしかに!)
よって、
その化合物である塩化ナトリウム(食塩!)も危険である
となってしまった。
危険物をこぼしてしまった時の取り扱いは、
ゴム長靴を履いて、ガスマスクを着用の上、
複数人が処理に当たる。
という取り扱い規定があるため、
例えば、
食堂のテーブルで食塩の瓶を倒してしまったら、
上の処理をしなくてはいけない。
こんな事態が現実に起こってしまったらしい。

机上だけで、書類上だけで、
現実と乖離した概念の世界だけで、
物事を考え始めると、
こういうナンセンスなことが起こる。
「危険」なんて概念は、どこまででも延長できる。
今日、
わたしやあなたが死んでしまうかもしれない
危険要因を100個あげなさい
といわれたら簡単だである。
日頃の不摂生のため、心臓が突然止まる。
急激な寒さのため、脳の血管が切れる。
マンションに飛行機が落ちてくる。
交差点に車が突っ込んでくる。
立ち読みしてるコンビニに狂人が現れる。
30年前の色恋沙汰がもとで刺される。
などなど。
しかし、現実には、
そのどれもほとんど起こる可能性はない。
いや、絶対起こらないと言ってもいい。
(さしあたって、今日は)

過剰な危険性判断は危険である。
全く馬鹿げている。
上の例は、極端な例だけど、
同じようなことが、
五十歩百歩の違いで、
どこでも起こっているに違いない。
もちろん、
あたしのいる場でも例外ではない。


2009/12/09(水)
グループ・ジーニアス

1人の天才を育てるのも、雇うのも
大変である。
ましてや、
自分が天才になるのは、もっと
大変であるっていうか、
今更言われても感がある。

「グループ・ジーニアス」という考え方によれば、
凡人の集まりでも、
集団の力で1人の天才になれるという。
とてもおもしろい。
烏合の衆という言葉があるが、
三人寄れば文殊の知恵という言葉もある。
天才度ゼロの自分にも、
天才になれるチャンスがあるという考えは、
大変救われる(笑)

グループが鵜に変身するか、
文殊に変身するかは、
グループのリードにかかっている。
どうメンバーを構成するか、
どうコントロールしていくか、
つまり、
リーダーの能力にかかっている。

うちは、というかあたくしは、
「アイデアの前ではみな平等」主義をとっている。
会社での立ち位置に関係なく、
誰もが同じチャンス、パワーで発言できるよう
こころがけている。
(単に会社が小さいだけの話でもある)
それを邪魔する、
圧力や摩擦が発生しないように気を使っている。
つもりである。
が、しかし、
十分に化学反応しているかというと
全然、まだまだだ。

「グループ・ジーニアス」は
たしかにすごいパワーだと思う。
アイデアをあるレベルに進化させるのは、
絶対必要なパワーとさえ言える。
ただし、
「グループ・ジーニアス」は
アイデアのシード(元ネタ)を
生み出すには向かないと思っている。
シードは個人の中でのほうが生まれやすい。
ただし、
個人=ジーニアスでなくてもよい。
「グループ・ジーニアス」が
その芽をちゃんと育ててくれるなら。

プロジェクトをうまく育てるには、
どんどん種を生み出す個人。
それを育てる「グループ・ジーニアス」。
さらに、
種人間と「グループ・ジーニアス」を
コラボレートできる
すぐれた、第三の視点の人が必要だ。
既存の役割で言えば、
プロデューサーという職種の人だ。

このトライアングルが
うまいバランスになっていると、
プロジェクトはうまくいくようだ。
自分の体験の中では
『アストロノーカ』が
けっこういいバランスの三角形に
なってたかなーと思っている。
(当社比)
もっとも作ってから先は
あまりうまくいかなかったが(笑)


2009/12/07(月)
リアルタイム、参加

今日やってる「ウェブ学会」の会合や
先週土曜の口ロロのコンサートネット中継を見ていると、
ネット文化はなんか、
新しいフェーズに入ったなという気がする。
こういう試みがほぼ同時に起こったことが、
象徴的でもある。

ネットを通しての
リアルタイム中継するっていうのは、
ちっとも新しい仕組みじゃないけど、
上の2つのイベントは、
今までとはちょっと雰囲気が違う。
うまく言えないけど、
今までのネット中継は、
一方行、受け手と送り手が
はっきりわかれていたが、
twitterを使うと
とてもお手軽な「参加型」になれるのがおもしろい。
お手軽なってあたりも大事だし、
ニコ動みたいに「色」がついてないことも大事。
受け手と送り手の間が双方向につながり、
受け手と受け手の間が双方向につながる。
現場にいる人とモニターの前にいる人の
両方が参加者となる。
いや、今までと違う感は、
仕組みの話じゃなくって、
むしろ反応速度なのか。
あるいは温度なのか。
あるいは背景が見えるところなのか。

う~~ん。。。
「今までとなにか違う感」
言葉で説明しようとすると
どうもチープな、そして、そこじゃないだろう、
という説明になってしまう。
もどかしい。。。

人はなにをもって
リアルタイムと感じるのか。
ネットにおける
リアルタイム性はどのくらい重要なのか。
人と人のつながり感に
リアルタイム性はどのくらい重要なのか。
人々の共感、共有において、
リアルタイム性とはどのくらい重要なのか。
リアルタム性と参加性はどのくらい影響しあうのか。
そんなことを考えるには、
いいヒントをくれるイベントだ。
(考える必要があるかっちゅー問題でもありますが)

上の2つのイベントが
一方は学術的なイベント、
一方がエンターテイメント的イベントであることも
注目したい。
ネットのリアルタイム+参加性という機能は、
きっと、
対象となるイベントのカテゴリーを選ばないんだろう。
娯楽、情報、文化、政治、経済、
なんにでもうまく機能するのだろう。

ただし、現在のところ、
こういう流れに、
出版とコンシューマ・ゲーム界が
まったく反応していない感があるのが、
怖いというか、心配というかなう。


2009/12/04(金)
「平均」には誰もいない

ご指摘の症状は確認できませんでした。
念のため、部品を交換しました。
(新品に交換しました)"
不思議なことに、
修理に出した某ゲームマシン、
某コーヒーメーカー、
某HDMIハブ、
どれも同じような文面だった。
そして、
結果、戻ってきた製品は無事動いた。
最初から壊れていなかった?
すべてこちらの勘違い?
でも、なぜか部品交換した?
なんで、新品に交換してくれる?
壊れてなかったわけだから、
メーカーの責任はない?
謝る必要すらない?
釈然としないけど、
このグレーな状況は、
もはや、白黒状況に分離不能。

商店街やデパートの中で流れる音楽を聞くとき、
新幹線の座席の絵柄を見るとき、
「平均」には誰もいない!と
あらためて確信する。

誰もが不快じゃない。
というマイナス・フィルターと
いろんな価値観の平均で、
デザインや機能、要素を絞り込んでいくと、
こういう選曲やデザインになるのだなーと思う。
そして、結果、
たしかに誰も不快には思わない。
でも、誰も楽しい、美しいとも思わない。
そんな結果になる。

誰かに嫌われそうな要素を排除する。
誰かを「拾う」要素を追加する。
全体のコンセプトとかバランスを無視して、
以上の操作を盲目的に実行する。
(余談だけど、
最近のMIXIはこの傾向にある気がする)
広くユーザーにアピールすべしという命題が、
そう、曲解される。
こういうところに着地してしまう。
これはつまんないし、危険思想だ。
他山の石~~。
いや、すでに「他山」じゃないかもと自戒。


2009/12/03(木)
google IME

>あたしのまわり(のつぶやき)は、
今日、この件で盛り上がってます。
googleがつくった
日本語入力システム「Google日本語入力(ベータ)
Webから自動で、
辞書を生成するってあたりが新しい。

今までの日本語入力システムの辞書は、
作りきりのDB。
(バージョンアップはあるけど)
DBがオフライン(過去)になっている。
DBこそオンライン(現在進行形)であるべき。
そういう「当たり前」が
実現されたのがスゴイ。

それがネットとつながったら、
オフラインではいられない。
きっと、
日本語入力システムに限らず、
そういうことになるんだろうな。
ゲームのデータセットも
この先、例外ではいられなさそうだ。

以上、
「Google日本語入力」で書いてみたけど、
ATOKと変わらない性能。
しかもタダ!
どうする>ATOK
どっち(の辞書)を育てる>オレ




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