人間風車

2010/08/27(金)
エアコンが壊れた

エアコンが壊れた。
正確に言うとコントローラーから制御できなくなった。
本体にも電源ON,OFFスイッチはあるので起動はする。
でも、
温度や風量などは設定できない。
なんと本体のデフォルトの温度設定で25度らしい!
(なんでそんな低い温度に設定されている!)
なので、
キンキンに冷えるか、
クーラーなしかのどちらかを選ばないといけない。
昼間はまーいいとして問題は夜。
凍えながら寝るか、
クーラーをつけないで寝るか、
究極の選択を迫られたこの二日間であった。
もちろん、選んだのは
熱中症ではなく風邪のリスクのほう。
キンキンに冷えた部屋で
布団にくるまって寝るという
なんとも反エコな生活を送った。

んで、今日、修理屋さんがきた。
5分もしないうちに
「パーツ取り替えないとダメですね。
取り寄せが必要です」
えええ!
あんだけ詳しく事前に症状説明したのに、
取り替えパーツ持ってきてないんだ!
しかも届くのが最速月曜!
(土日休みかい)
まだ3日もあるじゃん!
まだ3日も凍える夜を過ごさないといけない!
絶対風邪引く!
サポートの電話対応とかの感じで、
ちょっと心配な感じはしてたんだけど、
最悪!(笑)
(ちなみにうちのは「森でダムを造る動物」エアコン)
っていうか、
それにしても
なんでクーラーの本体に温度できないんだろう。
そこで温度設定さえできれば、
少なくとも凍えることはないのに、、、
それよりも、
もうすぐ9月だというのに、
なに、このクーラー必須天気。


2010/08/24(火)
応援してます

『アストロノーカ』の自主制作してくれてるみたい。
"「0」からアストロノーカを作れたら。"
作家冥利に尽きるというのはこういうときですね。
なんか、
逆にお手伝いできるといいんだけど、
自分たちが関わると
契約関係でいろいろややこしいことになるので、
応援だけしかできないのが残念。

人気MIXIアプリ『サンシャイン牧場』が出たとき、
ずいぶん『アストロノーカ』ぽいと言われた。
でも、
『アストロノーカ』を企画した当時は
「なんで農業?」
「農業ってゲームぽくない世界観」
「ゲームで農業やって何が楽しいの?」
ってけっこう言われたものだ。
ちょっと時代とずれてたかな、残念。

農業という世界観云々より、
個人的には、
遺伝子を掛け合わせて
野菜の質を高くする、新種の野菜を作る
ってあたりを
GA(遺伝的アルゴリズム)をベースに、
マジメに作ったあたりが評価されると
さらにうれしいんだけどな(笑)
(ここらあたりはまだ誰も追従してくれてない)

例えば、新種の作物を作るとき、
ゲーム的な乱数やフラグで、
予定調和的に何かを作るんじゃなくって、
現実の生物、生命原理に従って作る。
属性だけじゃなくって、
誕生、生育条件に、
実際の日付、時間、天候、位置情報
なんかが加味される。
そういう「リアル」が加わるとおもしろそう。
そこらへんは、まだ、
いろいろと試行ができそうだ。
もっとも、
現在のコンシューマゲーム事情だと、
その試行がなかなかできない、
という問題があるんだけど。


2010/08/20(金)
カルチャーショック

SNSゲームに限らず、
他人とつながらない遊びはもうダメだ。
ってのはよくわかる。
ウエイトがゲーム自体ってよりも、
他者とのコミュニケーションにある。
コミュニケーションのネタ、触媒としてゲームがある。
そういう極論も、ある程度理解できる。
しかし、そんなときでも
求められているのは、
善意、とはまではいかないまでも
暖かいコミュニケーションだろうと
想像していた。
例えば、協力プレイ、
対戦プレイにしても遺恨を残さない対戦、
例え負けたとしても、それは記録だけであり、
リアルなダメージ(アイテムがなくなるとか)はない。
そうあるべきに違いない。
と思っていたところに
先にも書いた「怪盗ロワイヤル」である。
これは久しぶりのカルチャーショックだ。

見ず知らずの人が、
自分がせっせと集めたアイテムを盗んでいく。
誰が盗んだかもわかる。
仕返しも出来る。
盗まれていい気はしない。

このゲーム、
自分自身はまりこむ気配はない。
むしろ、正直、ちょっと引く。
がしかし、
世間にこれだけ受け入れられているわけだ。
ちょっと引く自分の方が、
マイナーな感性であり、
ゲームに対して旧体質と思うべきなんだろう。
ともかく、
ちゃんと整理して考察すべき対象である。

上の盗む、盗まれるは、
ネガティブなコミュニケーションであると同時に、
それは非情に希薄なコミュニケーションでもある。
温度が低いといってもいい。
且つ、
多くの人との同時多発的なコミュニケーションである。
つまり、
知らない人×薄い×たくさん
のコミュニケーション。
従来のゲームがめざし、提供してきたコミュニケーション、
友達×濃い×限定
と真逆であるのが面白い。
ついでに。
ゲーム屋にしれてみれば、
盗む盗まれる部分のデザインがキモと考え、
仕組みと演出をリッチに考えるところだが、
このゲームでは仕様も演出も
拍子抜けするくらい単純である。
ここも真逆。
注視されているのは、むしろその結果。
結果から発生するコミュニケーションである。

従来のゲーム屋、っていうかオレが、
めざす(=求められている)
コミュニケーションの質を
見誤っている感がある。

プロレスの衰退と格闘技の盛況の
関係に近いのかもしれない。

また、
ガラ携では成功しているものの、
(ちゃんと調べてないままに言うと)
どうやらFacebookではそうでもなかったらしい。
というあたりも考察の対象としてはおもしろい。

ともかく、
もう少し考えてみたい対象である。


2010/08/19(木)
私の中のガラパゴス

今日も暑いですねー、と書こうと思ったら
今日の東京はやや涼しい。
明日もやや涼しいらしい。
もうお盆も終わったわけだし、そうだよねー
と思ったら、週末はまた暑くなるのだそうだ。
今日明日はトラップか。
こういうのが一番効くんですよね。
歳を取ると暑さに弱くなるのではなく、
気温の変動に弱くなるのです。
変動の速度について行けなくなるのです。

と書いて、
これは体調のことだけじゃなく、
仕事でもそうなんだろーなーと
しみじみ思ったりした。
最近よく自分に言い聞かせているのは
「お前の頭はガラパゴス化していないな?」
ということだ。
世の中の価値観は絶えず変化している。
自分の価値観も絶えず変化している。はず。
しかし、
その世の中と自分の中の変化の速度が違う。
自分にとっていいと思うポイント、
こうあるべきと思うポイントが、
世間ではもうすっかり通用しなくなっている。
そういうことがあるはずだ。
(通用した時代があったのか!という突っ込みは不要w)

ある意味、仕方がない問題だけど、
仕方がないではすまされない問題でもある。
パッケージビジネス的価値観に基づく
ゲームデザインはすでにガラパゴス的発想である。
は自分の持論なう、であるが、
そういう自分の中にもきっとたくさん
ガラパゴス化した価値観があるに違いない。
どうやって自分の中のガラパゴスを見つけるか?
脳内のイグアナでも探すか。


2010/08/09(月)
次作アプリ

今なんと自作アプリを3つ同時並行に作ってます。
1つは『ヌカカの結婚』『テロメアの帽子』の続きの絵本。
もう2つはゲーム。
全部、iPhone,iPad用のアプリ。
3ヶ月でほぼ3作完成。
かなりハイペース。
もちろん外部の人にも手伝ってもらってますけど、
性格的には、ちょうどいいペース。
(ただ、肉体的には、、、)

進化とは、仮定と検証であり、
進化の速度とは、その繰り返しの速度である。
「こういうの、いいんじゃないかな」
「その仮定どおり作ってみましょう」
「ここが受けたね」「ここがダメだったね」
「よーし!次はそこを反映!」
仮定、それから導かれる成功と失敗。
その反映。
それを繰り返していくことで進化する。
生物型進化だ。

これに対して、大きなプロジェクトは
マーケッティングが大きな判断基準となる。
「その仮定は売れるのか」
1年後の市場の予想なんて誰ができるんだろう。
まして新しいハードになったら。。。
過去のマーケッティングデータはたしかに正しい。
過去に実際にあったことだからだ。
ただし、
過去のデータが役に立つのは、
過去と未来が同じ直線上にあるから
という前提に立っている。
しかし、それも「仮定」であることは間違いない。
もちろん、
時代を問わない、不動の価値観があるのは確かだ。

「×××は△△△たるべき」
という固まった価値観(過去の価値観)が
大手をふるうようになると
そのジャンルは怪しくなる。
今までいろいろなところを渡り歩いてきた自分が
唯一見つけた法則である。


2010/08/05(木)
「幸せ」探し

いろんな「幸せ」がある。
人それぞれに違った「幸せ」がある。
そう思え、そう実現できる
今の時代は本当にすばらしい。
が、同時に
自分ならではの「幸せ」を
自分で見つけなくてはならない、
そういう面倒な時代でもある。
他人の「幸せ」をマネしたって意味がないし、
だいたいマネすらむつかしい。
他人の「幸せ」と比べても意味がないとわかっていも
ついつい比べてしまって、
たいがいはへこむ。

こういう「幸せ」もある、
ああいう「幸せ」もある。
たいがいの「幸せ」のひな形は、
(物理的な可能性としては)
自分にも手に入るもの。
故に選択肢が増える。
選択肢の数=悩みの数ともいえる。

さらにやっかいなのは、
もしなにかのラッキーで
目指した「幸せ」が手に入ったとしても、
すぐに次の「幸せ」がほしくなること。
次々と生まれ、だんだんと難易度が高くなる「幸せ」。
「幸せ」を求めて人生を犠牲にするなんて、
本末転倒なことさえ起こりうる。
手に入れた「幸せ」でもう満足、
なかなかそう言えない。
「足るを知る」という仏教の教えがあるけど、
その実現は難しい。

さらにさらに、これからは
生きる「幸せ」とともに
死ぬ(ときの)「幸せ」もちゃんと考えないといけない。
死ぬべきときにちゃんと死ねる、
そういう「幸せ」すら
自分で選び、求めなくてはならない時代。




« 人間風車: 2010年7月 | | 人間風車: 2010年9月 »